08 塩釜講
高木村に塩釜神社が祀られるようになると、周辺の村々にも塩釜様参りの講ができました。
八幡神社の宮司、押本家に『塩釜講社結』という古文書が残っています。内容は、
「宮城県の塩釜神社が東の遠い地にあって、容易に参拝できなかったが、このたび高木にご分社を新築することができた。これは信者に参拝させようといういわれであるから、信心する同志の者が相はかり、講を結び、信仰しよう。そして各家の幸福を祈り、神様を敬おう。」
ということで、そのころのこ分社社掌(ぶんしゃしょう)、押本梅麿氏の名前が書かれています。
塩釜講は、戦前には四十数講あったといわれます。当時のお守札授与簿によると、現在の東大和市内はもちろん、北は所沢から南は町田あたりまで、かなり広範囲にわたって信仰されていたことがわかります。なかでも、福生には講中(講の仲間)が百名を越えるものがあったようです。
戦後の一時期、講の活動は下火となりましたが、世話人の努力もあって、再び講の数も増え、今でも七百名ほどの講中がいます。
地元の高木には講はありませんが、村を、東、西、砂とに分けて、三年ごとに輪番(りんばん)で大祭の準備にあたります。大祭(四月十五日)の前日には、社殿の内外や、境内の大掃除をします。お守札も、大祭の三日ぐらい前から世話人によって用意されます。大祭の当日になると、女性数人が世話人宅に集まり、早朝から赤飯をふかし、にんじん、ごぼう、ちくわ、切いか等でお煮しめを作りました。
大祭日当日、各地の講から代表がおまいりに来ます。明治・大正にかけては、女性もまじえてわらじがけでのおまいりで、午前中に参詣をすませ、講中の人数分だけのお守札をいただき、社務所で地元の人から接待を受け帰村しました。
講の地元では、お日待(講中が集まって飲食をする)の用意をして待っています。代参がもどってきて、お守札を全員に配ってからお日待をして楽しみました。
昔でこそ何里も歩いておまいりに来ましたが、乗物の普及につれて徒歩から自転車となり、今では自動車で参詣に来るということです。(p18~19)
塩釜講(東大和のよもやま話8)
東大和市高木の塩釜神社に安産祈願の信仰をもとに結ばれた「講」の話です。
今ではあまりに聞けなくなりましたが、一時はその数43、1291人の方々が講を結ばれていました。
北は埼玉県所沢市の上安松、南は町田市、多摩市に至る広範囲でした。
「宮城県の塩釜神社が東の遠い地にあって、容易に参拝できなかったが、このたび高木にご分社を新築することができた。これは信者に参拝させようといういわれであるから、信心する同志の者が相はかり、講を結び、信仰しよう。そして各家の幸福を祈り、神様を敬おう。」
地元の高木には講はありませんが、村を、東、西、砂とに分けて、三年ごとに輪番(りんばん)で大祭の準備にあたります。大祭(四月十五日)の前日には、社殿の内外や、境内の大掃除をします。お守札も、大祭の三日ぐらい前から世話人によって用意されます。大祭の当日になると、女性数人が世話人宅に集まり、早朝から赤飯をふかし、にんじん、ごぼう、ちくわ、切いか等でお煮しめを作りました。
大祭日当日、各地の講から代表がおまいりに来ます。明治・大正にかけては、女性もまじえてわらじがけでのおまいりで、午前中に参詣をすませ、講中の人数分だけのお守札をいただき、社務所で地元の人から接待を受け帰村しました。